昭和45年01月28日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 「信心はせんでもおかげはやってある」と、今日はこいうところを少し検討してみたいと思います。確かに天地は流行ることもなし。流行ることがないから、終わりもない。これは絶対そうです。天地には流行ると言う事はがない。これは金光様の御信心がそうかというと、そうじゃないと思うですね。本当なものではあると、天地の姿それこそが、本当なものであって、流行る事があったり、なかったりとする様な事はない。
 そこで結局は、私共が本当なものを目指し、本当なものを求めて、信心を進めて行く訳でございますね。ところが「信心はせんでもおかげはやってある」と仰るのに、これは信心をせんでも、天地の恩恵を受けておるとゆう意味でございましょうが。私は信心はしておっても、本当なものじゃなくても、おかげはやってあるとゆうふうに、今日頂いていきたいと思うんですよ。例えば何々金光教、教会と看板がかかっておる。ですからその教会が生き生きとした、例えば御比礼があってもなかってもです。
 その御比礼と言う事はあんまり今日は、あてにはならんというふうに思うて頂きたい。あちらはなかなか人が集まりよる。たくさん人が助かりよる。だからあそこのは本なもんだと、決めてしまう訳にはいけんと言う事。例えば合楽の場合なんか、朝の御祈念にこれだけ信者が集まる所は、ひょっとすると九州には他には無いかも知れません。朝参りの数が多いとゆう意味では、いうならひょっとすると九州一かもしれん、現在のところ。だから、合楽の信心が素晴らしいというふうに決められないち言う事。
 それはある教会のごとありゃ、それこそ朝参りでも千人から集まる、と言った様な教会も上方にあります。もうそこの先生なんか、まるきりスタ-並です。だからそのワイワイ言うておるからね、そこの信心が本当なものとは思われん、言えないとい結う事ですよ。あちらの信心が立派だから、やっぱりあれだけ人が集まりよるじゃないかというふうなその。流行っておると言う事です、それはある先生が言っておりました。あちらなんかもうあちらの親先生のおんなさる、それこそ一代仏だろうと言うております。
 そこの噂を聞いて。私もそれを共感致しました。だから信者がたくさん集まるから、そこの教会は、本当なものだとは。私の今迄の生き方は、そうじゃございませんでしたよねえ。中に本当なものがあるからこそ、集まってくるんだというふうに。それを今日はそう言う事じゃなくてですね、本当なものじゃないと言う所。ね「信心はせんでもおかげはやってある」のですから、信心をしておっても、信心は本当なものじゃなくても、おかげを受けておる教会があると言う事。
 合楽教会なんかも、やっぱりそれだと思う。中心である私の信心が本当なものであるわけでもなからなければ、でけておる訳でもないのに、こんなに沢山の人が集まるということですからね。いうならば流行ってござる。例えば大変例に出してから(笑)お地蔵さんに対して気の毒ですけれども、高塚のお地蔵さんなんかそうでしょう。それはもうあれだけ沢山の人が集まる。遠方からもう高塚、高塚と言うて皆んなが集まる。その為にあんな山の中にバスが出来るくらい。
 だからこれは、どうゆう見地から見てもです、私達が見て本なものとは思われない。けれどもあんなに沢山人が集まってるじゃないかね。だから人が集まるから、本当なものと言う事じゃない。おかげを受けておるから、本当なものと言う事じゃない。口だけ立派なこと言いよりゃ、口だけ立派なこと言いよることに対して、おかげを受けておる場合もある。そこでお互いの信心のですね、いわゆる本当なものではないとういうそこを、私はひとつ分からしてもらわなきゃいけん。
 本当自分こそ毎日参りよるけれども、本なもんじゃないなあと。第一陰と日なたの心がある。もうそれはほんなもんじゃないです。例えばここにございますように、「天地日月の心になること肝要なり」と、こう仰るが、天地日月の心になると言う様な精進もなんにもしてはいない。「口に真を語りつつ心に真のなきこと」。もうそれは本当なものじゃない。本当なものじゃないけれども、おかげは受けておるでしょうが。まあその流行るとゆう何かそこに原因がひとつありますよね。
 例えば私は、まあ高塚のお地蔵さんを決めつけるようですけれども、第一あっちはキャチフレ-ズが良いとこう言う。宣伝文句が素晴らしいと。それに人間の弱点とゆうものを見事に掴んでおる。「人間の悩み、人間の願い事、その一つだけはです、それこそ信心は出来んでも、一つだけは聞いてやろう」と言われたちお地蔵様が。それがいわゆるあちらの殺し文句ですね。人間皆んなそげなもんを持っている。金の無い人はもうここに金がいくらいくら有りさえすれば、他になんにもいらんと思いよる。
 もう息子が大学の試験に通ってさえくれりゃ、もうと思うとる人もおる。この病気さえ治ればと思うとる人もある。と言う様に様々なこれを、いっちょおかげ頂いたならと思うと言う様なものを、皆んなそらそういう願いというか、欲望を持ってますから、それを聞いてやろうと言われたら、そんならいっちょ参ってみろうかという気になるのが人間としては当たり前。人間のね願い事を一つだけは聞いてやろうと、素晴らしいですよねえ。当てた訳ですそれが。それが流行の流行る元なんです。
 教え一つある訳けじゃない。ただ参って一生懸命あそこでお百度踏むだけ。なる程お金はいらん。けれどもやっぱりあそこ迄行く旅費だけでもたいした事、山の中ですから。けれどもそげな事は言わん。もうあそこに行きゃ金はいらん。そして何かいっちょうは聞いてもらえる、と言った様な事でですよねえ。けれどもあながちそれを笑う訳にはいかん。いわゆる群集心理と言った様な事を申しますねえ。
 人がワイワイ言うて集まっておると、なあにも訳も分からんとどんがでも、今度ワイワイ言うてついて行くんです。やじ馬根性ですねえいわゆる。そういう群集心理を見事に掴んで、これは、なかなかその教会なんかでもですね、やっぱやりようがよかところが、ばさらかありますよ。もうそれはお祭りだけでもばさらかある。もう七五三のお祭りなんとかのお祭りからちずうっとお祭りの名前。そして今度参って来る者に、状袋の中に米を入れちから、米までもたしてやる。新穀感謝祭と言うてから。
 新穀感謝祭だから、信者がおかげを頂いてから、米のお供えをするだけなら分かりますよねえ、新穀感謝祭は。ところが新穀感謝祭じゃからち反対に信者に、状袋に入れてから二合か三合ずつ米をやる。それであそこへ行くと米がもらえるというのが、ばさらか集まる訳です。けれども計算すると、これはばさらか損にはなりよらん。(笑)人間ちゃ汚いもんだと。さあ七五三のお祭りというとお宮さんなみ、それこそなんとか飴をやったりいろいろする。はあ金光様でも<あげんなことは出来る。
 もう兎に角教祖が教えられておるような事とは、違った様な事をですね、いわゆる素晴らしい、そのなんちゅうでしょうかね、商売上手とでも申しましょうか。それでやっぱ人を集めておるという教会も沢山ある。ですからですね、おかげを受けておるとか、教会の信者が沢山集まるから、そこの信心が本当なものだとは言えない、であるようにですそんなら、合楽の場合もそう言える。これだけ沢山の人達が朝参りをして来ると、あっちはほんなもんじゃから、と言う事じゃないち。
 それこそあるひょっとすると群集心理かもしれないし、ひょっとするとです、私が本当なものじゃない。けれども本当なもののふうをしておるから、それにつられて参って来よる者があるかもしれんてね。それが合楽の流行る元になっておるのかもしれん。そこでそんなら縁を頂いて、お参りして来る人達その人達もです。やはり自分の信心は本なもんと、その本なものの上にあぐらをかいておる様な事ではいかん。本なもんでない証拠を、ズラ-ッとひとつ並べてみるがいい。
 その証拠には教会におる時とお家(うち)に帰っておる時は違うじゃないか。もう本当なもんじゃない証拠です。陰と日なたの心があるじゃないか。もう本なもんじゃない証拠。信心はせんでもおかげはやってある。信心は出来んでも、その信心が本なもんじゃなくても、なにかの調子でおかげを受けておる場合がたくさん有る。そこでですね、そんなら、そういう完璧な本当なもの、本当なものというものが有るとも思われないのです。本当なものが有るとも思えないと言う事。
 そこでですね、例えば御理解五十七節、五十八節を仮に私どもの信心に押し当ててみるといいです。御理解第五十七節「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と本当に神を杖についておって、それが本当なものと言えましょう。所が本当に神様に一心でございますとは言うておるけれども、神様に一心じゃない証拠に、金の杖をついておる木や竹をついておるから、いつも安心じゃないでしょうね。
 それでね、安心じゃと仰っておられる「神を杖につけば楽じゃ」と仰るけれども、楽でないなら本なもんじゃないと言う事が分かる。五十八節に「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」と、そうゆう時にです、そうゆう時に例えば、成程泥棒したこともないのに泥棒と言われ、貰うてさるかんとに乞食じゃと言われたら腹も立とう人間じゃから。
 けれどもそういう時に、しっかり信心の帯をしとるなら本なもんです。そういう都度都度に。けれども俺がいつ泥棒したか、俺がいつ乞食したかと、信心の帯はしめずに言うておるようなものであったら、それはもう既に本当なもんじゃないと。本当なもんじゃなくてもねえ、その本当なものらしいと言う事だけでもですね、やはり人の心をつかんで離さないようなものが有りますよね。
 私は昨日テレビの映画の丁度、四時の御祈念前迄あっておる、仇打ちかなんかという映画が、テレビ映画があってました。もう暫く私の心をつかんで離しませんでした、その映画の内容が。ひとつもそのてらいがない。お芝居らしさがない。もう本当に人間とゆう者は、あれが本当だろうと言う様な、本当なものらしく作ってある訳ですね。ある百姓がですね、それこそ地ずめよう働いて、小金やらを貸して金を儲けて、そして侍の株を買うて、それでもまあだ小金を貸したりして儲けよる。
 そこへ真面目な侍が金を借りに行くと、言った様な所から始まっているんです。それでその嘘ばっかり言うて、その貸そうとせんもんですから、若い侍がカ-ッとなって切り殺したとゆう訳なんです。ところがその役人が調べに行ったところが、それは日頃あんまり評判がよくなかったもんだから、とうとう切った方はもう無罪。まあ切られ損と言った様な事になったという訳なんです。ところがそれに息子達が二人おって、その息子達が敵討ちの許しを受けに行ったところが、そう言う事はしちゃならん。
 いやそれを怨んではならんという証文まで取られて、とうとうすごすご帰って来た。弟は体が弱い。親方の方はどうでも、ひとつ親の敵を討とうと言うので、非常に性根が良くない親方ですけれども、親の敵を討とうと言う事の一念でですねえ、敵を討つという筋でした。それで敵を討って逐電する訳です。逐電するけれどもお上の方としては、それを本当に追おうともしないし、又今度は敵を討たれた方が討たれ損と言った様な。けれども人間の世界て、あんなもんだろうと思いますね。
 それが本当なことだから、芝居としてのなんと言うですかね、その盛り上がりと言うですか、けれん味というものは全然ないです。見とってよかなあ、はぁあそこはあげん見よって思うですよね。ああしたが良かと思いよる、そう言う事は全然ない。ほんなもう淡々として描いてある訳です。ところがですね、それが人間の本当なことなのですから、私共が見とってから、私どもの心をつかんで離さないものがある訳です。
 信心もやっぱりそう言う様に本当なものでなくとも、本当なものらしゅうしておるだけでも、やっぱりあっちの先生は素晴らしか、と言った様な事になるかも知れませんよ。合楽なんかもやっぱ、五十歩百歩だとこう思います。所がですね私が思うんです。私も決して本なもんじゃない。『今日は私御神前でですねえ、お芝居に出て来ます、いわゆるおげ坊主ですよねえ。河内山早春とかね十六夜精神という芝居に出てくる精神とか、それからにっとうとかいう女たらしの坊さんのあるお芝居が有ります。
 そう言う様な、いわゆる悪僧ですねえ。いわゆる私達が言うおげ坊主です。おげ坊主の姿を次々に御神眼に頂くのですね。これはもう「お前もおげ先生ぞ。」と、神様から言われておるような気がしたんですけれども。』そして頂きましたら、今のいわゆる「流行ることなし」と、「天地日月の心になること肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある。」というところを頂きましてです、本当に自分というものを、本当におげ坊主である自分という者を、ひとつ自覚しなければならない。
 但し合楽のおげ坊主は、いつも本当なことを目指しておると言う事。本当なものじゃないけれども。本気で天地日月の心になろう、「天地日月の心になること肝要」と仰るが、天地日月の心になることに一生懸命努めておると言う事。どこをとっても本なもんじゃない。本なもんじゃないけれどもです、本なもんになろうと精進しておると言う事。人が泥棒じゃと言うても、乞食じゃと言うてもです。そのつどつどに私は、信心の帯を締め上げていきよると言う事。
 「金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」仰るから、それを本当に実証しようとですねえ。いわば折れる場合もありゃ曲がる場合もあるけれども、これは、自分がまあだ神を本当に杖についてはおらんのだと、分からしてもろうてです、いよいよ本気で、神を杖につこうと精進、いわゆる前向きの姿勢でおると言う事です。私はそれをなしにです、本なもんでないならばです。いよいよ「信心はせんでもおかげはやってある。」と、いうおかげを受けておるのと同じ。
 信心は本なもんじゃないけれども、おかげを受けておるというのであってです、ですから私は今日は形の上に表れてくるおかげで、その人の信心が本なもん、本なもんじゃないとは言えない。私共の信心をもう一つ本気で検討してみて、いわゆる本当なものじゃないと。人から見られたら本当に恥ずかしい位な信心だと。けれどもそこからね私共が脱却するというかね、そこから抜け出ようとする、精進をしておるかいないかと言う事で、その人の信心が本なものか、本なものでないかと言う事が決まると言う事ね。
 だから本な事を本当に目指しておるならばです、まあ本なものとして神様は認めて下さるように思うのです。本気で天地の心を心として日月の心を心として、「天地日月になること肝要なり」と仰るから、そこのところに焦点をおいて、私共信心の稽古をすると同時にです、ここんにきがおげだと。おげ信者ちゅういうのがおります沢山。おげ先生がおるように、やはりおげ信者がおります。だからおげと言われるような、思われる様な事では相済まんのですから、せめて本当なものらしい私共にならせてもらおう。
 昨日の映画じゃないけれども、真実に近い。勿論作った映画でございましょうからね。けれども人間の心というものを本当に、人間とはこういう思い方とか、在り方が人間らしいと言う所をですね、いわゆるお芝居に仕立てなくて、本当なものらしく作った訳なんです。ですから私共お道の信心者がです、お道の信心者らしゅうです、あろうと精進する。自分で気がついたら、そこを改まっていこうとゆう精進と同時にです、「天地日月の心になること肝要」と仰る。
 その天地日月の心にならして貰う精進を本気でさせて頂こう。どげんこげん言うても、やっぱりあれだけの御比礼が立っとるじゃないか、あれだけのおかげを受けよるじゃないか、本なもんの証拠と言う様な見方は甘い。それは高塚のお地蔵さんですら、あれだけの人を集めておられるじゃないか。いうなら当たるも八卦、当たらぬも八卦と言った様な事でも、いわゆる群集心理というか、殺し文句宣伝文句が素晴らしいというか、それに吊られて人は集まっておるのであって、本当なものに集まっておるのではない。
 合楽のこれは、私を始め皆さんもです。合楽は確かに御比礼を頂いておる。いうなら流行っておる。それがです私は本当なものだからという思い方は、思い上がりだと。但し本当なものを合楽は、確かに前向きな姿勢で本当なものを目指して進んでおると言う所迄はね、行かにゃいけません。果たして私達が朝参りはしているけれども、本当なことに向かって精進しておるか。
 おかげの方ばあっかり向いておるのじゃないか。もうそんなら既にそこにおかしいです。おかげの方ばっかり向いておっても、そんならおかげは受けんごとない、やっぱり受ける。だからそのおかげに腰掛けて折る様な事ではです、おげ坊主おげ信者と言われても仕方がない。人間誰しも完璧というものはありません。けれどもその完璧を目指してですね、本当なものを目指して、私どもが日夜精進させて頂いておるという。
 それを御理解五十七節と、五十八節を例にとって申しました。信心はせんでも、おかげはやってある位ですから、信心が間違うておっても、それは本当なものじゃなくても、おかげを受けておる。俺のことを違うとると言うけれども、実際はおかげを受けとるじゃないかと、だから本当なものだと言った様な見方は甘い。なる程信心も出来んのに本当なものでもないのに、このようなおかげを受けておるだけである。
 けれども、本当なものを本気で私どもは目指しておるという、そこんところをですね、いわゆる今日の焦点にして頂きたい。いわゆる本当なものである、いや本当なものらしゅう、ひとつ振るまわせてもらおう、思わせて頂こう。そこに精進をさせて頂こう。「天地日月の心になること肝要」とおっしゃる、そういう精進をさせて頂こうち。人がとやこう言うような時に、そういうつどつどに、本気でひとつ信心の帯を締め上げていこうという訳ですね。
   どうぞ。